農家の嫁が働きながらこっそりつぶやく独り言

~仕事のこと、農作業のこと、家のこと、子どものこと、 何気ない出来事 ~

【胸に迫る、平和を願う想い】

8月9日。
昨晩から明け方にかけて福岡に最接近した台風9号は、私の住む町には大きな被害を出すことなく、本州へと抜けていった。
温帯低気圧に変わってからも、発達を続けていて、広島や島根で大雨を降らせ、明日にかけても、北陸から東北、北海道へと影響を与え続けるみたい。
どうぞ皆さん、大雨の備えを忘れずに、そして何事もなく過ぎ去りますように。


今日は、長崎に原爆が投下された日。
当初、原爆は北九州市の小倉に落とされる予定だった。
8月9日午前9時ごろの小倉の上空は、天気が曇りで視界が悪かったということだけれど、前日の8月8日、八幡製鉄所を標的とした「八幡大空襲」が起きており、空襲に伴う煙の影響で視界が悪かったということも言われている。いずれにせよ、この日、小倉ではなく、第2目的地の長崎に原爆は投下されたのです。
北九州市では、毎年8月9日に平和祈念式典が行われ、現在は、「平和資料館」の新設が検討されているとのこと。


もしも、小倉に原爆が投下されていたら、私のいのちがバトンを受け取ることができたかどうかはわからない。そんなことを考えていたら、11時2分、先日の広島の原爆投下日と同様に、市内の防災無線から平和の鐘が鳴り響く。
お盆の準備で家じゅうの窓を磨いていた手を止めて、生まれてこなかったいのちのこと、生き続けることができなかったいのちのこと、一瞬で消えてしまったいのちのこと、生き残ってしまったいのちのこと、などを考えながら、静かに平和を祈る。

 
そして、今日のFacebookで流れてきた記事。
投稿されたご本人の許可をいただいて、こちらに添付しました。

 
 
 
毎年8月6日には、学徒動員先で被爆した叔母が52歳で亡くなる前に綴った被爆体験をFBに載せています。
あの日を忘れず語り継いでいくために。
この体験記は、叔母が便せん7枚に懸命に綴った自身の体験です。
長文ですが、お時間の許す方はご覧ください。
叔母の「色々恐ろしい、苦しい、痛い目に会いましたが、二度とこの様な悲惨な目に会いたくないと思う一念です。今後永遠に平和であることを望みます。」という思いが誰かに届くことを願って。
 
原爆体験記】            千原 和子
(一九八四年十月二十九日五十二歳で永眠)
 当時私の家は、現在の大手町三丁目に当る所にありました。家族は両親と弟と私の四人家族でした。兄が二人と姉が一人おりましたが、長兄は二十年六月に中支より内地勤務になり、山口県の厚狭に陸軍主計少尉としておりました。次兄は予科練で横須賀の方へ行っておりました。姉は古市の方へ嫁いでおりました。
 私はその時(原爆の投下された八月六日のこと)中学二年生で、すでに学徒動員で日赤病院の隣にありました貯金局へ出ておりました。父と弟は家で留守番、母は町内会のほうから疎開後の整理で市役所の裏の方に出て作業中でした。
私は八時から始業でしたので、八時前に貯金局へ行き、原簿の整理等の仕事の準備をしておりました。
そうしている内にピカッと稲妻のような光が見えました。とっさに逃げようと思い、事務室の出口に出ましたら、二階、三階、四階と上の方からどっと人波が押し寄せてきました。ころがって降りて来る人、走って下りて来る人など様々です。傷を受けている人や動けなくなっている人達は下敷きになってふみつけられておりました。そのため、腹部が破れて腸が出ている人や耳がちぎれている人など、さまざまな人がおりました。
 そのうち、担任の先生の指揮で、家に帰れる人は帰り、帰れそうにない人は日赤病院に避難するよう言われたので、私は日赤病院の地下へ行きました。
その時、私は上の前歯が三本折れて、下の唇をかみ切っており、あごの方から手足、腕などに無数にガラスの傷を受けていました。唇や口の中の傷のため、10センチ巾で上衣やモンペまで血に染まっておりました。
 日赤の地下から出て正面入口の方に出た時、トラックに大勢の負傷者が運ばれてきました。その中に母がおりました。何のめぐり合せでしょうか。夢のような思いでした。
母の方から私の名前を呼んでくれました。母は私の方からは全く分らない程全身ヤケドをして、モンペの腰ヒモの所だけ巻きついて焼け残っている状態でした。全身灰色になってやけただれ、手の甲の皮がむけてたれ下っていました。唇は上下それぞれ二センチくらいの厚みにまではれ上って、足の裏まで焼けただれておりました。なにぶん一番暑い時ですので、カラカラに乾いて大変痛かったと思います。
 間もなくして畳が運ばれて来ましたので、二畳分もらって日赤病院の庭へ敷きました。その上に母を寝かせ、時々私の救急袋から脱脂綿を出して水をふくませて吸わせて上げました。お昼頃、炊き出しの人々がたくさんのオニギリを持って来てくれましたが、母も私も全く食べられる状態ではありませんでした。
お昼過ぎ頃から医者が一人来て手当に当っておりましたが、長い行列ができています。私たちはとても並んで待っている程の体力もありませんので、何の治療もしないままでした。
昼夜問わず、周りにたくさんの人々が転がっていて、「水・水・・」と叫び通しでした。そのため、私は一睡もすることなく、夜通し母の横についておりました。
 翌日もまた暑い日が続き、また地獄のような日を送りました。
その翌日八日午後、母はとうとう一言も言わずに亡くなりました。私は涙の一滴も出ませんでした。私自身負傷しておりましたし、何かと気が付く年齢でもなかったため、唯々何もしてあげられなかった事が一番つらく残念です。
早速市役所の方へ死亡届けを出すために行きました間に、死体を整理されており、分らなくなってしまいました。当日、日赤病院の横に死体の山がありましたので、そこにでも運ばれていたのでしょう。
 私も途方にくれていました。そこへ、父が弟と一緒に尋ねて来てくれました。父と弟は江田島へ避難していたとの事でした。
父は顔面がうす茶色に焼けて。弟は頭に直径三センチ、深さも三センチくらいの穴があいており、毎日ヒンヒンと泣いておりました。当時4歳でしたので無理もないことです。父は弟を横抱きに抱えて逃げたそうです。
次には姉が尋ねて来てくれました。そこで、皆で姉の家に向いました。
十二日にそこで弟が死亡しました。弟のお葬式を済ませ、可部の叔母の所に行きました。そこに一週間位居た後、向洋の叔母宅へ行きました。
そこで今度は父が二十二日、口から血をはいて死亡しました。私はすぐに大八車を借りて、死体を乗せ、青崎小学校の校庭にて私の手で焼きました。最後の身内を亡くして、一人ぼっちになり、子ども心で大変なショックでした。でも不思議なことに、涙は出ませんでした。
 その後、自分自身もガラスの破片などで手足にたくさんの傷を受けておりましたので、毎日自分の手で治療しておりました。当時食糧もなく、サツマイモのつるとかカボチャなどが毎日の食事でした。現在の様に食物が豊かでないため、傷の方もなかなか治らず、半年位かかりました。その間歯ぐきからの出血や手足の傷の痛さもかまわず、毎日の生活に追われておりました。
幸い、八月三十一日に次兄が予科練から復員して帰り、ホッとしました。早速兄が就職して収入を得るようになりました。
 私の学校は比治山下にあり、校舎はほとんど倒壊して使用できない状態でした。そこで、向洋の小高い山の上に仮校舎を作り、そちらへ移ることになったため、机や椅子など、それぞれ自分の物を山の上まで運びこみました。ここで九月頃から授業がやっとできるようになり、再び私も学校へ行かせてもらうことができるようになりました。
 そしてその翌年の春、厚狭におりました長兄が復員して帰って来ました。そこで、兄妹三人が向洋にある旧家の沢田様宅の玄関先の十畳一間で生活することになりました。私は学校が近いだけあって通学は楽でした。長兄は出征前、住友銀行へ入社しておりましたので、復員後再び銀行の方で仕事ができるようになりました。でも、私は毎日朝晩の炊事から洗濯、掃除、夜は勉強と何かと忙しい日々でした。そのうちお米も衣料も配給制度になりました。お米は玄米のままですので、自分で臼でついたりして大変でした
人間は不思議な力があるものです。両親揃っている時は、冬には風邪をすぐ引き、夏は貧血で倒れたりしておりましたのが、両親が亡くなってからは自立心ができたのでしょう、病気らしい病気も若いときはせず過ごして来ました。
 二十三年、中学を旧制の四年制で修了しました。ちょうど新制高校との切り替えの時期でしたが、私は両親もおりませんし、経済的なこともありまして、兄にあまり負担をかけることも出来ないと思い、進学は断念して旧制中学で修了いたしました。幸い修了と同時に三菱銀行の入社試験にパスしましたので、四月から広島支店の出納係に勤務することになりました。以来十六年間勤務しまして、三十九年七月に退職しました。
その間、大阪へ名古屋へと転任させてもらいました。それは兄の転任に合わせていましたので・・
それまで結婚のお話もいろいろありましたが、「結婚の費用は自分で貯金してから」という信念が強かったので、時期を見計っているうちに遅れてしまいました。女一人で生きて行くのは大変なことです。
 一生懸命働いて貯金しましたが、体に無理がいきまして、常に鉄分欠乏症貧血で、四十五年頃からは毎年二回の検査で「要精密検査」とされていました。私は「毎年このように貧血ばかり続くのは、何か体の中に血液を取られるような病気があるのではないか」と常に不安でした。
そのような思いでおりましたところ、五十二年六月、子宮筋腫でカタマリができ、手術しました。四十歳後半に入り、更年期障害も出る頃ですから体には気をつけておりましたが、今度は盲腸の辺に何かカタマリがあるのに今から六・七年前頃気がつきました。特別痛みもなく、ただ、長歩きした時や疲れた時にそこがつっぱる様な感じがしていましたが、あまり特別気にもかけずに毎日働いておりました。
 昨年二月八日の午前一時半頃、急に盲腸の辺が痛み出し、胸がムカムカしてはき気がする病状がでました。急性の盲腸ではないかと、すぐに主人が救急車を呼んでくれました。そしてすぐ入院して局部を氷で冷したりしておりますうちに痛みが治りました。痛まなくなった時に腸のレントゲンを撮りましたところ、何の異常もないとのこと。私はしこりが気になりますので、この際徹底的に検査をしようと思い、一旦退院して国立病院の内科へ行きました。「もしかすると婦人科の方かも分らないので、婦人科の方へ。」と言われ、またそちらへ行き超音波断層写真の検査を受けましたが、分かりません。
私自身いらいらして、三月十七日船橋中央病院へ行きました。院長先生の診察を受け、また超音波等で検査をした結果、三十三ミリのしこりがあることが発見されました。それからそのしこりが何であるかの検査です。大腸の長さは普通一メートル六・七十センチと言われておりますが一メートル九十センチくらいの長さの管の先にカメラがついているものをお尻から入れて検査をしました。その管を入れる毎にものすごく痛みがあり、手が硬直してしまいました。その検査が約四時間位かかり、やっと悪性のものではない事が分りホッとしました。 
 唯ガンを心配しておりましたので本当に助かりました。
院長先生も手術した方が良いように言われますので、手術することにし、昨年四月十五日に手術しました。時間は三時間半くらいかかったそうです。大腸を四十五センチくらい切除しました。
術後四日間は点滴を毎日六・七本ずつ。五日目はお茶を100cc朝夕のみ。六日目から流動食。十日目から三分がゆでやっとお米が食べれるようになれて、本当に嬉しかったのを思い出します。ちょうど大腸と小腸のつなぎ目の所に消化を助ける弁があるらしいのですが、それも一緒に切り除きましたので消化せず、お水と同様の下痢状態が続きました。食事をすればすぐ下痢。一日に七回、八回も下痢をしました。とうとう痔が切れて出血する様になり、痔の手術もする程になって、それは大変でした。お小水も少しずつしか出ないので、何回も何回も主人や看護婦さんの手をわずらわせて便器をあててもらいました。
 三十七日間の入院後、五月十四日に退院しました。退院する前から広島の草津に居住している兄夫婦が「広島へ帰って、原爆病院へかかって治療した方が何かと有利なことが有るだろうから。」と言いますので、広島へ帰る事にしました。
退院して早速引越しの荷物を整理するのに、毎日傷を気遣いながら、少しずつ片付けて、やっとの思いで広島まで帰って参りました。
 こちらへ帰ってからでも、毎日食べれば下痢と言う状態が続き、六月、七月には白血球数が二千くらいに少なくなりました。原爆病院の医者も少々ビックリして、いろいろ手当をして下さいました。私もこのまま白血病にでも悪化するのではないかという不安がありました。特に真夏の暑い中で、食べれば下痢で身につくこともなく、手術前に比べるとと体重も十kg減ってしまいました。この様な状態が四月から約六ヶ月続き、やっと現在では下痢状態も治っております。
 下痢状態が良くなった矢先、やせて皮と骨になり、身がやわらかくなり張りがなくなりました。そのため、今度は右腕にガラスらしいものを感じました。原爆病院で早速レントゲン検査をした結果、やはりガラスであることがハッキリしました。そこで、また去年の暮の十六日に入院して、二十日に手術してガラスを摘出しました。その時のガラスがこれです。また、六、七年くらい前にも、足首の内側に円錐形のガラスが入っていましたのを市川市に在住の時に切開して出しました。三十八年間私の体内に入っていた異物として、また、原爆にあった証として私自身大切に保管しておきたいと思います。
 私は、昨年広島に帰って来まして以来、現在も続いて原爆病院の外科の方に週一回通院しています。いただいた薬を飲み続け、ときどき時期を見ては血液検査等もしておりますが、徐々に回復に向っております。また、毎週兄嫁が病院へ一緒に来てくれますので何かと勇気づけられております。
 このように大きな病気をしますと、すぐ「原爆のために体のどこかが狂ってきて病気が出るのではないか」と毎日が不安です。
色々恐ろしい、苦しい、痛い目に会いましたが、二度とこの様な悲惨な目に会いたくないと思う一念です。
今後永遠に平和であることを望みます。
以上で私のレポートとしてお話させていただきました。
注 当時 父 喬 四十九歳
     母 トミコ 四十二歳
     弟 忠  四歳
次兄というのが父にあたります。
【写真】左端が横須賀の予科練に行って助かった10代の父。
右隣のセーラー服を着ている少女が、被爆後52歳まで生きて親交のあった叔母。
原爆で亡くなり1度も会ったことのない祖父、祖母、幼い子どもだった叔父。
 
5人、子供、立っている人の画像のようです

 

1人、テキストの画像のようです
 
アウトドアの画像のようです
 
花、アウトドアの画像のようです
 
アウトドアの画像のようです
 

 

社会教育の現場で活躍され、私たち後輩の仕事ぶりを温かく見守り応援してくれている大先輩の記事。これまで見聞きしたどんな体験談よりも胸に迫ってくるものがあった。
自分が知っている人、身近な人で、原爆について語る人に初めて出会ったからかもしれない。
ただの過去の惨事として語られるのではなく、何千人、何万人という数字としての犠牲ではなく、まぎれもない個々の人としての語り。私の中で、漠然としたものが塗り替えられ、息を吹き込まれたように語りかけ、平和を問いかけてくる。

コロナによって脅かされるささやかな日常の幸せ。
内乱や紛争、戦争によっていのちの危険に脅かされる毎日。
住む場所も、水も食べ物さえもない、そんな環境に置かれている人々が今もこの地球上には数えきれないくらいいる。

平和というものは、奪うものでも勝ち取るものでもない。創り上げていくもの。
そして、一人一人のささやかな幸せの上にあるもの。
最近は、そんなふうに感じて、そう思っているのだけれど、今年の夏は特に、「人々の幸福」ということを私に強く問いかけてきているように感じている。