農家の嫁が働きながらこっそりつぶやく独り言

~仕事のこと、農作業のこと、家のこと、子どものこと、 何気ない出来事 ~

【いつかホントの「農家の嫁」を目指して】

昨晩、何気にFacebookを眺めていたら、なんとなく不安感が強くなってしまった(;^_^A
Facebookって、自分が求めている情報も、求めていない情報も、ぜんぜんお構いなしにどんどん流れてくる。
いろんな活動を積極的にしている友の投稿も、自分がフォローしている人の投稿も、明るい話題も暗い話題も、今必要なこともそうでないことも、私のことなんかかまわずにどんどん流れてくる。

それに比べて、ブログというものは、なんとありがたいことか。
なんといっても距離が取れる。
読者になっている方の新しい記事も、そこに行かなければ読むことはできない。
もちろん、私の記事も、わざわざ私のページに来ていただかなければ読むことはできない。そこには、明らかに「自分の意志」というものが尊重される。
私は多分、「自分の意志」が尊重されるブログの方が、自分の性に合っているのだろうな。


去年の夏に、「半農半X」だとか「土づくり」だとか世の中の仕組みから「オフグリット」してみることだとか「パーマカルチャー」だとか、そういうことを学んでいるうちに、「岡本よりたか」さんという方を知り、Facebookでフォローさせてもらっているのだけれど、1月5日の岡本さんの記事が、すごく自分に訴えかけてるようで、ずっと気になっているので、こっちに貼り付けてみます。

 

 

「柿と柿」
疲れ気味なので軽めの話題で…(笑)
柿(かき)と柿(こけら)って、同じように見えるけど、別の漢字なんだってね。
違う字だとは知ってたけど、こうやって見ると見分けがつかない(笑)。
はるか昔の話だけど、農業始めて間もない頃、農業機械も持ってなくて、ひたすら鍬で畑を耕し、畝立てしてた。
無肥料で野菜ができるのか。そこになんの根拠もないまま、ただ畑を耕しているわけで、この先の収入の見込みもなく、暮らしていけるかもよく分からない。
だから、ITの仕事は手放さないでいる。
収入はある、ITで。だから見込みがなくたって、ただひたすら畑を鍬で耕し続けるだけでいい。それで良かった。幸せだった。
だって、やってるフリが欲しいだけだから。
耕している自分の姿に憧れていて、なんだか一生懸命、土と触れ合い、ぶつかり、分かったようなフリをして耕し続ける。
周りからは奇妙な目で見られるけど、でもそれでいい。精を出しているのは分かってくれているし、なんとなく農家っぽいし。
野菜ができても小さいし、形が悪いし、汚いし。でも、そのままでいい。小さくていい。これが自然農なんだからと、そう思いながら耕すわけ。
それで満足だったんだよな、あの頃。
で、ある時、柿(かき)と柿(こけら)は、見分けはつかないけど、違う漢字だと気づくみたいに、自分は農家ではないと自覚する。
柿(かき)は食べられるけど、柿(こけら)は木屑でしかなく、食べられるどころか邪魔で捨てられるだけの存在。
つまりね、暮らしがかかってない無肥料栽培なんて、うまくいくはずがないということに気づいたわけ。所詮ね、趣味の延長でしかない。
だから、柿(こけら)から柿(かき)に変えるべきと思った。
耕すフリではなく、農家のフリではなく、生きていくために耕す必要があると。自分が生きていく糧として畑と向き合うべきだと気づいた。
つまり、いのちの根源を生み出すという覚悟が必要ってことなんだよね。
それで、僕は食えない農家から食える農家に変わった。それはお金が稼げるようになったとか言うことではなく、本気で自分の食べ物を自分で生み出せるようになったってこと。
やっぱり無肥料無農薬栽培って舐めてはいけないんだなぁと、つくづく思った。
なんでもそうだと思うけどね。
生きていくために必要なものを手に入れるためには、本気度が試される。
あ、誤解がないように。もちろん、農家にならないという選択肢でいいと思う。自給農で十分。今はそう思ってる。だから自給農を広めているわけで。
まぁ、当時もそのまま続けていけばよかったんだけど、農家になる!という志を持ってしまったら、本気度が試されちゃったと言う話(笑)。
そうそう、柿(かき)と柿(こけら)は単に似ているだけではなく、それぞれの文字の成り立ちに意味があるらしい。
柿(かき)は、市場で売買される木の実。つまり右側は市場の市。柿(こけら)の右側はハイという文字であり、"花のしべが垂れる形"を表す。
全然違うんだね(笑)。さて、おやすみなさい。

 

※岡本よりたか氏 2022年1月5日のフェイスブックよりー

 

『僕は食えない農家から食える農家に変わった。それはお金が稼げるようになったとか言うことではなく、本気で自分の食べ物を自分で生み出せるようになったってこと。』

この文は、私の中に幾重にも輪を描いて広がっている。
たぶんね、私のやりたいことの中に、間違いなく農業はあって、それは決して営農ではなく、暮らしの中に当たり前にある農業。生活のサイクルの中に、季節の暮らしの中に、当たり前に農業がある。農業というより、土に触れる、そういう感覚。土に触れることが中心にある暮らし。

今はお給料をもらう仕事が中心の生活だけれど、ほんとはそういう暮らしをしたいんだということがなんとなく見えてきた。それでもやっぱり生活スタイルを変えられないでいるのは、大きな家と同居の家族、あちこちにある土地、たくさんいる親戚づきあい、10代の息子たちの将来・・・そういう現実的な不安が立ちふさがるからなんだよな。
それなのに、「農家の嫁」なんて言っちゃっていいのかね・・・って、自虐的になってしまう始末。

自分がやりたいようにやったらいい。
でも、自由っていうのには、本当に責任が伴う。
自分の人生に責任を持つことについて、正解のない問いを投げかける日々。
本当にやりたいことってなんだろう。
将来の夢ってなんだろう。

 


新しい世界に今すぐ飛び込めなくても、準備体操はできるよね。
そう、今は準備体操の時。
あと少し、その時が来たら「いやっほーい!!」って飛び込めるようにね。
でも案外、知らないうちにやりたいことをやっていて、わざわざ勇気を出して飛び込まなくても、気が付いたらそこにいた!みたいになっているかも。
だといいなー。

やりたいことをやってきた。そうしたらいつのまにかプロフェッショナルになっていた。ホンモノってそういうものなんだと思う。

 

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パーマカルチャーのパイオニア、四井真治さんの記事。
この方、私と同郷。
そして、少し先輩。
自然に学び、自然と共に生きる知恵。
日本の暮らし、文化についてとても参考になる生き方をされている方です。

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